生命は神聖なもの
サティシュ・クマールは、精神のない物質は存在せず、物質のない精神も存在しない、そしてこの神聖な絡み合いこそが、すべての生命を贈り物にしている、と言っている。
翻訳・校正:林田 幸子・沓名 輝政
生命は一つです。すべての存在は平等です。ハチドリから人間に至るまで、すべての存在には本質的な価値があり、生きる権利があります。すべての生きとし生けるものは、同じ6つの要素、つまり土、空気、火、水、宇宙、意識からできています。この6つの要素がひとつにまとまったとき、人間の生命であれ、人間以上の生命であれ、生命が形成されるのです。
これらの要素は物質と精神で表現できます。土、火、水は測定可能で数値化できます。したがって、私はそれらを物質のカテゴリーに入れます。空気、宇宙、意識は測定も数値化もできません。したがって、私はそれらを精神のカテゴリーに入れます。
生命は物質と精神の一体化で成り立っています。精神は物質なしでは存在できないし、存在しません。そして物質は精神なしには存在できず、存在しないのです。土、火、水、宇宙は呼吸し、意識を持っています。
それぞれの要素は他のすべての要素を含んでいます。すべての要素は、絡み合っています。ただ便宜上、またコミュニケーションを簡単にするために、私たちはそれらに別々の名前をつけています。しかし、究極的には分けられないのです。物質は生気を帯びます、なぜならそれが精神を具現化するからです。そして精神は、人間、動物、植物、山、海、そして地球全体の身体の中で実体化します。
地球全体が生命体です。私たちはその生命体を活気づいた地球、あるいは宇宙霊魂、あるいは、ガイヤ(大地の女神)と呼んでいます。地球は意識的な存在です。ガイアは自立し、自己管理し、自己組織化する存在です。
「人間」という言葉はラテン語のフムスに由来し、フムスは「土」を意味しています。したがって、人間は文字通り土の存在なのです。アダムという名前はヘブライ語のアダマに由来し、アダマは「土」という意味も持っています。土は、動物の体、植物の体、その他すべての体と同じように、人間の体へと変容します。
私たちの体は平均して60%の水分を含んでいます、だから私たちは水の体なのです。私たちは生きている間、常に空気を吸っています、だから私たちは空気体です。私たちのお腹には火があり、火は私たちの体を温め、太陽は光合成によって生命を維持しています、だから私たちは火の体でもあります。私たちはどこにいても宇宙にいます、だから私たちは宇宙体です。そして私たちは自分自身を意識しているので、意識体です。これは人間の身体だけでなく、すべての身体において言える現実のことです。肉体が機能するのは、その中に精神や生命があるからにほかなりません。
生命は共同体
生命は一つです。しかし、それは何百万もの形で現れています。私たちは一体となった生命を祝います、そして生命の多様性を喜びます。一体性は、画一性ではなく、多様性は分裂ではありません。実際、画一性は一体性を否定し、分裂は多様性を否定します。一体性を画一性に、多様性を分裂に変えようとするとき、私たちは対立と矛盾を引き起こします。
生命は多様です。ビッグバンが起こった当初、そこにはガスとエネルギーがありました。私はそれを物質と精神と呼んでいますが、その2つは別々の存在としてではなく、1つのまとまりとして存在しています。それから、非常に長い進化の期間を経て、無数の生命体が誕生しました。進化は一体性の中における多様性を支持しました。したがって、宇宙(Universe)は多様性と一体性(Unity)のダンスなのです。
Unity(一体性)は「Universe(宇宙)」という言葉の中に暗に示されています。しかし、このひとつの宇宙には、多くの惑星、多くの銀河、そして多くの太陽系があります。同様に、地球というひとつの惑星には、多くの大陸、多くの文化、そして多くの生命体が存在しています。自然はひとつです、しかし、それぞれの木、それぞれの山、それぞれの動物は異なっています。人類は1つですが、2人として同じ人間はいません。地球というひとつの惑星は、生物多様性、文化の多様性、真実の多様性の故郷です。ひとつの人類は、たくさんの色、たくさんの言語、たくさんの宗教、たくさんのあり方を包含しています。多様性は進化の本質なのです。
一体性とは単一性ではなく、多様性とは二元性ではありません。一体性とは、物質と精神の関係であり、生命の6つの要素すべてに関係しています。孤立して存在するものはないのです。原子も電子も粒子も、それ自体では、ひとつも見出されません。存在しうるときというのは、原子や粒子の共同体が結合し、精神に組み込まれたときのみなのです。全てのものは共に現れます。物質と精神は共に現れます。
生命とは、物理的な有機体と形而上学的な意識の共同体です。私たちが物質と精神を2つの実体、内と外を2つの次元と呼んでいるのは、単に言葉の問題です。現実には、一方が他方なしに存在することはないのです。分離はありません。精神なくして物質を見出すことはできないし、物質なくして精神を見出すこともできません。
唯物論者にとって、測定・定量化できないものは何も存在しません。彼らにとって精神性とは迷信の問題です。彼らの宗教は純粋な唯物論です。彼らは聖なる物質を崇拝します。しかし、スピリチュアルな人々にとって、物質は束縛の源となりえます。官能は罪の源となりうるのです。彼らの宗教は純粋な精神です。彼らは聖なる魂を崇拝します。しかし、ホリスティックな観点から見れば、物質は精神と同じくらい聖なるものであり、精神は物質と同じくらい聖なるものなのです。聖なる物質、聖なる精神!
生命は永遠に変化し続けるプロセスであり、私たちはそれを生命のサイクルと呼んでいます。生命は生命から生まれ、生命に戻ります。形成と変容、誕生と死、出現と消滅、永続と無常が、存在のあらゆる瞬間に共に繰り広げられています。静と動はこのように常に共にあります。これが、常に存在する生命のパラドックスです。
生命は神聖でもあります。生命を維持するために生命は犠牲になります。ひとつの生命が別の生命を養います。土は、生きとし生けるものすべてを養う食物を育てるために自らを犠牲にします。水は生きとし生けるものの渇きを癒すために自らを犠牲にします。空気も、火も、宇宙もそうです。母親は、この世に新しい生命を誕生させるために、生と死の経験をします。新しい人間、新しい動物、新しい樹木が生まれるために、人間も動物も樹木も死にます。これらすべては犠牲の一形態であり、愛とともになされるのです!
この犠牲こそが人生を神聖なものにします。それは愛に満ちた非暴力の犠牲のプロセスです。力によるものでもなく、外部からの押し付けでもありません。ひとつの生命が、愛情をもって自らを捧げ、他の生命を養い、維持しています。したがって、川は神聖であり、木は神聖であり、山は神聖であり、土地は神聖なのです。すべての生命は神聖です。
大義のために自分の命を犠牲にすることはあるかもしませんが、他の存在を殺すほどの大義はありません。犠牲になるということは、命を奪うことではなく、命を与えることなのです。食べ物のためであっても、私たちは動物や植物に与える害を最小限にするよう最善を尽くします。食べ物は贈り物であり、私たちは感謝してそれを受け取ります。自然界には食べ物が豊富にありますが、私たちは自制と謙虚さをもってそれを受け取る必要があります。マハトマ・ガンジーは、「地球はすべての人の必要を満たすのに十分な量を与えてくれるが、すべての人の欲を満たすためではない」と言いました。愛と非暴力は、生命の神聖な精神に敬意を表し、祝福するための最良の原則なのです。生命を愛するとは、期待することなく、決めつけることなく、差別することなく、ありのままの生命を受け入れることです。
生命は神です。神は一個人ではありません。神は関連性の原理です。暗黙の愛の原理によって、すべての生命は関連し、絡み合っています。したがって、神性は暗黙の生命の真理です。畏敬の念と驚嘆、神秘と寛大さ、美と神性の感覚をもって、私たちは生命を祝福します。私たちは生命を愛します。
最後に、私たちは生命とは何かわかっていません。私たちの知識はすべて、単なる視点にすぎません。私たちは生きていると感じています。私たちは人生を経験していますが、それを完全に知っているわけではありません。私たちの知識はすべて部分的なもので、解釈や変化の影響を受けています。今日知っていることも、明日には変わっているかもしれません。すべてを知らないほうがいいのです!生命を愛し、その神秘性を認めていくのがいいでしょう。
サティシュは2025年1月29日(水)にリサージェンストークを行います。ご予約は www.resurgenceevents.org をご覧ください。
サティシュ・クマールは『Soil, Soul, Society』(www.resurgence.org/shop)の著者。
348: Jan/Feb25
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