なぜ日本の立場は未だに軍隊の放棄なのでしょうか
日本の新たに再選した首相が直面する困難な任務は、国を平和主義から背けさせる事。ピーター・ポファムがレポート。
日本は、自らすすんで交戦権を放棄しているおそらく世界唯一の大国です。
実益政策 (realpolitik) の観点からすると、戦後日本の憲法第9 条(1947年5月施行)は、無謀で、純真とも読み取れる宣言です。「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」続いて「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。。。陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
日本の戦後の指導者たちはどんな世界に暮らす事を想像していたのでしょうか?軍隊無しで、いかに国を存続させ得ると考えたのでしょうか?
単純に答えると、ご承知のように、9 条は日本の発案ではありません。圧倒的多数のアメリカ人の占領軍部により、日本政府が押付けられたものです。統治階級にいた日本人の多くが受け入れました。南北戦争時代のアメリカ人が北軍兵士が持ち込んだ物を何から何まで歯を食いしばり受け入れたように。なす術が無かったのです。国が立っていられない状態でした。
ところが、奇妙な事があります。67年以上後でも、9条が持ちこたえているのです。放棄しようと言う強力でしつこい保守派の圧力にも関わらずです。最も決然と成し遂げられ、日本の平和主義を減退させた事は、安倍晋三首相に起因するものです。彼が2014年12月中旬に連続2度目の総選挙に勝利した事。 古い価値観に固執する愛国主義者の彼は、従来から連なる保守的な政治家に倣っています。 太平洋戦争以前の交戦状態を咎める日本に歴史を書き換えさせたいのです。この事で注目を集める事になるのが次のような惨事。南京大虐殺、朝鮮人捕虜、軍隊へ売春する女性(いわゆる慰安婦)です。また、自国民にこう言っているのです。
日本は戦争責任と言う重荷を下ろし、再び世界の中で力強く軍隊を維持する時だと。12月16日、選挙での勝利後、再三繰り返し発言したのは、自身と政党の長期目標、平和憲法の改正により、これを実現するという事でした。
注目すべきは、そのような事を日本のリーダーが一人で言っているとはならず、結局、世界で米国と中国に次ぐ3番目の経済力を持つ国の発言になる事です。中国が著しく成長し、積極的に東シナ、南シナ海内での権利を主張する中で、日本は、かつてないほど巨大な隣国からの緊迫感の渦中にあります。
いいえ、注目すべきは、安倍さんの困難さで、同胞を説き伏せて、彼の主導に従わせる事です。
保守派の多く、安倍さんも含め、第9条をごみ屑として、歴史の屑箱に葬り去りたいものだと考えています。存在なきがごとく忘れさせ、日本をもう一度軍事大国(実際は核大国)に変えたいものだと。しかし、憲法改正(衆参両院の3分の2以上の賛成と国民投票の過半数の賛成が必要)の努力をする代わりに、2014年7月、単に、条文の再解釈をして、日本に限定的な集団的自衛権を与える事にしました。非常に異例であったのにも関わらずです。国民の意向は反対でした。
なぜ日本人は再軍備を躊躇するのでしょうか?
簡単に答えると、苦い経験からです。
日本の軍国時代、第二次大戦前に見受けられたのは、イデオロギーを吹き込まれた国民です。天皇制、日本人の民族的優秀性、敵を玉砕できるという神がかり的な確信というイデオロギーを。この確信に心酔し、政権は真珠湾を爆撃する事で太平洋戦争に突き進みました。軍隊は東南アジアまで怒濤のように展開し、オランダ、フランス、イギリスの植民地支配を容易に押しのけました。
しかし、企て全体が砂上の楼閣でした。2年と経たずに、軍は武器と食料を、飛行機や大砲を、使い果たしていました。武器の代わりに、軍部は国民の一致団結を喚起。「一億玉砕の覚悟で臨め」と。元祖「神風」は、13世紀に侵略するモンゴル艦隊を吹き飛ばし壊滅させた台風ですが、この事で、国が不死身であるという基本認識を引き出しました。現代の言葉にすると、全国民がいつでも喜んで天皇のために死すという意味です。
「特攻隊」は、連合国艦隊へ奇襲する有名な神風航空隊で、軍隊のえり抜きのエリートに限定。若い飛行士が訓練を受け、なんとか残った使える航空機、ジプシーモス型の複葉機で、侵略してくる連合国艦隊へ突撃。小柄な海軍の新任が教えられたのは、小型潜水艦を連合国の駆逐艦に突撃させる方法。年を取り過ぎた、または、体が不自由で活発に動けない男性は、爆発物とハンマーを持たされ命じられました。浜辺に穴を掘り、内部に身をかがめ、敵の水陸両用の船が浜辺に達したら、適時に自爆するよう待機しろと。
降伏(連合国による京都を除く日本の主要都市の破壊後)が国のトラウマでした。何から何まで、日本人が洗脳されてきた事が、嘘であったと露見。神聖な国という通念に始まる全てです。
外国が日本を占領し、戦争放棄を迫ると、トラウマに囚われた日本人は提案のあらゆる利点を認識。結局、以前はその認識でいたのです。
16世紀、日本の中世の3大将軍の2番目、秀吉は、大胆不敵な計画(当時としては)を構想。まさに20世紀の帝国主義者のごとく。この事は、真珠湾に対して、野心的で且つ傲慢な愚行の前例で、彼は、朝鮮、中国とフィリピンの侵略を計画。大陸で最も近い朝鮮から始めようとしました。
当時の日本は、武器で溢れ、初の軍事展開の可能性で意識が高揚。この事に注意を払っていたのは、最も明敏な渡来人、キリスト教宣教師(日本人をキリスト教徒へ改宗させたい人々)でした。最も有名なのは、フランシスコ・ザビエルで、1552年にこう記述。「[日本人]は、戦争に必要なあらゆる事を褒め称えています。他に勝るものなきほど、非常に誇っていたのは、金銀で飾られた武器。常に刀と脇差を身に着け、家の内外で、そして、寝る時は枕元へ。要は、今まで見てきたどんな人々よりも武器に価値を置いています。」
秀吉は難なく朝鮮半島を侵略。160,000人を派兵し、その4分の1は火縄銃を装備。銃を日本へ伝来させたのは、ポルトガルの水夫で、ほんの9年前の事。地方大名が、水夫の一人が長い砲身の銃で鴨を射止めるのを見て、すぐさま銃の可能性を悟り、鍛冶職人に複製を命令。10年と経たずに、鉄砲鍛冶が 日本中で銃をたくさん作り出し、何万もの銃が秀吉の遠征で配備されました。
しかし、米国打倒を試みた帝国主義日本のように、秀吉の野望は、程なく寒水のような厳しい現実に浸かる事に。中国軍が来て朝鮮を救い、侵略軍を半島から駆逐。日本は身をもって学んでいました。撤退して、日本の島を閉ざす事とし、欧州人を追い出し、国外に対して国を封鎖したのです。それから徐々に、何10年もの時を経て、日本人が背を向けたのが銃。中国を征服するという慢心した計画につながった残虐な武器です。代わりに刀に舞い戻ります。侍の名誉と職人の心意気を具現化し、 決闘に使う基本的な道具です。しかし、世界の征服には全く使い物になりません。
鎖国により始まった265年間は「平和な状態」として知られています。芸術が花開き、経済は緩やかに発展し、銃器は沈静化しました。外側の世界がペリー提督の来航という形で日本に開国を迫った1852年、船員たちは、海岸の砲台から頭を出している古風で小さな真鍮の大砲を見て冷笑しました。どれも230年以上の年代物。
国の再開で、日本の繁栄と苦難の新時代が始まりました。その後1世紀も経たずして、広島と長崎の原爆で、極限に到達。それから、降伏し、平和の新時代が勝者により押付けられました。当然のごとく、彼らはとても熱烈に歓迎したのです。
ピーター・ポファム (Peter Popham) は、10年以上日本に住んだ人で、「The Lady and the Peacock」、アウンサンスーチーの伝記の著者、そして「The Independent」のスタッフです。
Japan's Farewell to Arms • Peter Popham
The country's opposition to militarism is deep rooted
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