生きる権利
アルワコ族の人々は、ヴィーガンと多くの共通点があるが、肉を食べていると、アナ・イルバ・トーレス・トーレスとグンキーウィア・トーレス・チャパロは言います。
翻訳:浅野 綾子
「Niwi Umukunu(シエラ・ネバダ・デ・サンタ・マルタ山地)」はアルワコ族のふるさとです。コロンビアの北、海抜 5000 m の山々に位置し、「Niwi Umukunu」は 4 万 5 千人の人間とそれ以外の数えきれないほどの生きものを養い、それらのいのちの原動力に なっています。アルワコ族は自分たちのふるさとを聖なる統一体としてみています。命の聖なる網の目にめぐらされた糸が母なる地球に住む生きものすべてを互いにつないでおり、ふるさとの水や森、空気、土、食べ物、人間、それ以外の動物の安寧は相互に依存しているとアルワコ族は考えます。アルワコ族は、この地球に住むものすべてには、魂の所有者がいると信じています。たとえば、「Turi’jina」は鳥の魂の父かつ所有者であり、一方「Zarin’jumaka」は哺乳類の魂の父です。
「mamo」と「kwimi」は、アルワコ族の人々から選ばれた男女の霊的なリーダーです。彼らのリーダーシップにもとづいて、アルワコ族の人々は「自然界と自分自身との均衡を追求」するように考え、行動します。「mamo」は、人間は物質的な次元において生じさせた害をひとつ残らず償わなければならず、そうでなければその害は霊的秩序の乱れを招くことになると考えます。物質的秩序と霊的秩序、この両方の乱れは「Niwi Umukunu」に住むすべてのものの存在と安寧を危機に陥れるというのです。
すべてのものの均衡を維持するため、「mamo」と「kwimi」は母なる地球に対する感謝と敬意をあらわす儀式である「a’buru」を行います。アルワコ族が他の生きものの命を頼りに生きるのを許されていることに対する感謝の行為です。アルワコ族が人間以外の動物を殺生した時、または誰かが亡くなった時、「mamo」と「kwimi」は「a’buru」と「anugwe iwechun」の儀式を組み合わせます。「anugwe iwechun」とは、人間かそれ以外の生きものかにかかわらず、生きものの身体から魂を引き抜くことを意味します。この儀式の意図は、死にともなう苦しみを防ぎ、魂を霊的所有者へと導くことです。均衡を求め感謝を行動にあらわす、アルワコ族のこのホリスティックなやり方は、その食習慣すべてを形づくっています。
アルワコ族の人々は、自然という神聖なものを称え敬うという根本原則にもとづいて社会生活を構築します。アルワコ族の食習慣は、食料生産から消費にいたるまでこの原則に従っているのです。各家庭は小さな農園で食べ物を育てます。具体的にはタロイモや豆、キャッサバ、プランテーン [料理用バナナ] などのさまざまな作物を育て、気候に応じて 2、3 の家畜(ヤギや豚、鶏)を育てます。アルワコ族の人々は、種まきや作物の収穫の前に儀式を行います。「mamo」は、しかるべき月相の間に土地や種、農家の人々のために霊的な祈りを捧げます。農家は、まだ何も食べていない、太陽が昇る前の時間に種をまきます。その後「mamo」は種をその霊的な母である「Ukwu」にゆだねるのです。種が芽を出すと、農家は苗を害虫から守るために霊的に清めます。
魂を養う
日々肉体的にきつい仕事を行うアルワコ族の食事は、主に穀物と野菜です。めったに肉は食べません。アルワコ族が肉を食べる数少ない機会は霊性が求められるときです。動物を殺す前、「mamo」はその動物の霊的所有者に許しを請い、それから「anugwe iwechun」を行います。動物を殺した後、その共同体では食べものをお供えするという形で動物の霊的所有者にお返しをし、そうすることで命の聖なる網の目に均衡を取りもどすのです。
食べものは(主に「gwirwa-seygu’nawu(とうもろこし)」で)、アルワコ族の人々の共同体主義的な文化を養うのに欠かせません。それは「jwa unkusí(洗礼)」を含む、多くの儀式の基礎になります。「jwa unkusí」は 1 ヶ月に及ぶ霊的な務めです。この務めを通して「mamo」と「kwimi」は赤ちゃんに対し、母なる地球に住むすべての他の生きものと争わず共存しなければならないことを教えます。
アルワコ族の食の主権 [食料生産や流通の主権を、食料生産者やコミュニティが取り戻すべきだという考え方] において、取り戻すのは古代の文化です。考え方や生き方を取り戻すのです。「Niwi Umukunu」の住民は命の聖なる網の目の均衡を維持しようと常につとめます。アルワコ族の中では、動物の魂を含む、自然の魂に対する敬いが生活のあらゆる場面に浸透しています。それは共同体主義の永遠に続く務めなのです。
完全菜食主義
「mamo」と「kwimi」は野生動物を食べますが、それ以外のコミュニティでは家畜を食べます。このような習慣は西側のヴィーガン [完全菜食主義者] の運動の根底にある原理とは相容れません。完全菜食主義は広範囲におよぶ活動であり、その核心にあるねらいは動物に対するあらゆる形態の搾取と残虐な行為をできる限り、またそれが現実的に可能な限り排除することです。多くのヴィーガンは、動物を殺し搾取するという論理的な根拠にもとづいた理由で伝統をはねつけます。ヴィーガンは動物に生きる権利があると信じています。ヴィーガンなら、動物を殺す許可を実際に求めることができるのか、別の行動を通して動物の魂を敬おうとすることが重要なのだろうかと聞いてくるでしょう。ヴィーガンの視点からは、動物を殺すという点で、アルワコ族の習慣は動物の生きる権利を認めていないことになります。
今なお、西側の完全菜食主義という「新しいスタイル」(318 号タラ・ガーネット執筆記事「Old Versus New(“新”対“旧”)」参照)の裏にある根本的な論理は「生きものの繁栄」よりも「消費」を強調しているように見え、アルワコ族の哲学と相反します。完全菜食主義へのこのアプローチは、高度に個人主義的な文化の中で発展してきました。個人主義は、世界を多くの部分へと粉砕することを必然的にともないます。これはホリスティックな考え方と対立する論理です。このような粉砕する哲学は、アルワコ族にとって、命の聖なる網の目に不均衡をもたらす最たる原因となります。個人主義を通して、人々は世界を全体から切り離された部分へと矮小化しようとしかねません。他の日常行為から孤立した行為としての食事も、人々が世界を矮小化しようとする原因になりかねません。共同体の中で互いに依存しあって生きていることを信じられないことは、個人が食習慣を通して自然を敬おうとする努力をやめる原因になりえます。西側の完全菜食主義による自然環境に対する敬意は食料の範囲だけとなり、その他一切の日常行為においては顧みられないことになりかねません。
先住民族の食の主権と、食料消費だけに焦点をあてる完全菜食主義との間のこのような不協和音に、どのように対応すべきでしょうか。対立する信条を注視するよりも、注目すべきはヴィーガンの視点とアルワコ族の習慣の間で共通する多くの考え方です。その歴史から、完全菜食主義は、アルワコ族の人々が実践するような自然に対する深い敬意につながる可能性があります。アルワコ族の人々が生活において実践する行動原則のとおり、アルワコ族の宇宙観には、それぞれの動物の魂が大元でむすびついているという思想が論理必然としてともないます。実際に、アルワコ族が肉を食べるのは(染み付いた習慣でも組織的な行為でもなく)、この世のすべての生きものは自然が織りなす布のように互いに影響しあっているという理解にもとづいています。先住民族の人々、動物、植物など、すべての生きものには霊魂があるのです。ですからすべての生きものは決して虐待されてはならず、そのうえで他の生きものの生存と繁栄に貢献しなければならないのです。
アルワコ族もヴィーガンの運動も、ともに母なる地球に住むすべての生きものにもっと敬意をはらう世界を求めています。それを異なる方法ですることが争いであってはなりません。そうではなく、これはお互いから学ぶ機会なのです。エコロジカルな地球の構成員になることを目指す者にとって、焦点をあてるべきはむしろ西側の大量の肉消費であり、世界中で生態系を破壊する悪影響な農業慣行なのかもしれません。
アナ・イルバ・トーレス・トーレス (Ana Ilba Torres Torres ) は、コロンビアのエクステルナード大学の弁護士であり、アルワコ族の一員です。グンキーウィア・トーレス・チャパロ (Gunkeywia Torres Chaparro) は、コロンビアのエクステルナード大学の社会学の学生であり、アルワコ族の一員です。ノルウェーのオスロ大学の博士研究員であるデイヴィッド・ロドリゲス・ゴイヤス (David Rodríguez Goyes) の協力を得て、本稿の初稿についてコメントを寄せてくれたジェニファー・マー (Jennifer Maher) に感謝します。
The Right to Life • Ana Ilba Torres Torres & Gunkeywia Torres Chaparro
Respect for animals is fundamental to the Arhuaco people
319: MarApr2020
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