人間の権利は動物の権利

種差別は同性愛嫌悪や女性蔑視に似ているとピーター・タッチェルは言います。私たち人間は動物種ですから、人間の権利は動物の権利の一種であり、動物の権利に人類が含まれる-あるいは含まれるべきである-ことは間違いありません。

翻訳:佐藤 靖子

残念ながら、だれもがみなこのように考えているわけではありません。多くの人は人間と他の動物を完全に区別し、人間と他の動物種、そして動物の権利と人間の権利の間にはっきりと明確な線を引きます。私の見方は異なります。感覚性は人間と人間以外の全ての動物種を結びつける接着剤です。私は共通の動物性を受け入れ、また、私たちが共に苦痛から解放されており、不可侵の権利を与えらているという主張を支持します。

 他の動物は人間より知能が低く、人間が持つ心身の能力、文化や道義心などが欠如していることは事実です。だからといって動物を虐待していいわけではありません。このような高度に発達した能力を持たない赤ちゃんや知的障害者などの人間の虐待を認めないのと同じことです。私たちはより弱い立場にある脆弱な人間を保護する特別な責任があることを認識しています。間違いなく同じ論理的思考が、立場が弱く思考や感情がよりいっそう脆弱な他の生き物にも当てはまるのではないでしょうか?

 私の倫理観では、人間と人間以外の動物の虐待の間に倫理的に大きな差はありません。他の人間と他の動物種を思いやる義務についても同じです。確かに、人間以外の動物に対する抑圧と人間に対する抑圧の間には関連が見られます。国籍、人種、性別、信仰/非信仰、政治的信念、障害、性的指向や性同一性などによる人間の抑圧と動物の抑圧の間には共通の要素があります。

 人間と他の動物のさまざまな抑圧の形は相互に関係しており、同じような権力乱用、そして同じように危害や苦痛を与えることに基づいています。それらをお互いに完全に分けて理解することはできません。動物を不当に扱うことは、人間を不当に扱うのと同じことです。残虐行為は人間に対してであれ他の種に対してであれ野蛮な行為です。

 動物の権利と人間の権利のための運動の根底には同じ目的があります。それは抑圧や苦しみのない、愛と優しさ、思いやりに基づく世界です。一方、種差別は人間至上主義の考え方や慣習であり、結果として他の動物種の虐待につながります。これには人間を優先する偏見、差別、暴力、そして人間による他の動物の搾取、監禁、虐待、殺害などが含まれます。

 こうした種差別の人間第一主義は、同性愛嫌悪や人種差別、女性蔑視に似ています。それは支配と抑圧の一種であり、人道的な文明社会とは相いれません。私たち人間は動物種であり、痛みや苦しみを知っています。それなのになぜ大半の人々が他の動物に対し狭量な態度を取り、医学研究所や農場、動物園、サーカスやスポーツイベントでの動物虐待を受け入れているのでしょうか?

 高度に洗練された知性を得たこと、そして物質的に発展したことは、私たちが他の種に対し威張り散らす権利を授かったということではありません。それができるからといって、そうすべきというわけではありません。反対に、私たちの知力、教育、道義心は、地球と地球上の全ての生き物に対する特別な管理責任を私たちに与えるものです。

 私の考え方はオーストラリア人の哲学者、ピーター・シンガーと彼の革新的な本「動物の解放(Animal Liberation)」の影響を受けています。私にとって、それは過去100年で最も重要な本の一つです。その本は、私たちの倫理の範囲を自らの種を超えて拡張しており、倫理における大きな変革です。

 人間の歴史上、私たちの権利の概念は着実に拡大してきました。当初、権利はごく身近な家族や部族、氏族に限定されていましたが、その後より大きな宗教コミュニティや政治コミュニティに広がりました。そして、権利は全ての国を対象とすべく再び拡大し、1948年、全ての人を保護する世界人権宣言が採択されました。論理上の次の段階は、感覚を持つ他の生き物に権利を拡大することです。

 動物の虐待は、感覚を持つ人間以外の生き物を「その他」とみなす人間中心主義の形態が元になっています。こうした考え方により、私たちはこれらの生き物を見下し不当に扱う「言い訳」をします。これには「その他」の生き物の侮辱、搾取、虐待、支配、殺害さえも含みます。私たちは、彼らを生きて考え感じる生き物として見ることを止めています。種が異なり劣っていることが、苦しみを与える根拠となっているのです。

 反動物の偏見は根深いもので、日常的な会話でも聞くこともあります。偏見を持つ人は種差別主義者の口汚い言葉で他の人々を中傷することが少なくありません。獣のように振る舞っている、行動が動物より劣っていると言って人々を非難します。こうした偏見は、黒人は野蛮であるとか、女性は卑しい(bitch)とか、LGBTは異常であるといった悪質な侮辱と同じことです。

 議論の余地のある不愉快な比較ではありますが、人と動物の奴隷所有は似たところがあります。いずれも自分以外の生き物に対する、同じような所有権、監禁状態、搾取などが関連しています。奴隷船の鎖につながれたアフリカ人のイメージは、おりやケージに入れられた家畜のイメージとさほど変わりません。医学研究所の動物に使用される拘束するための道具は20世紀以前に米国で黒人奴隷に使用されていた道具を思わせます。

 フレデリック・ダグラスやハリエット・ビーチャー・ストウなど偉大な奴隷制廃止運動家の中に、動物と人間の奴隷所有の類似点を指摘した人がいたことは、間違いなく偶然ではありません。そして動物の奴隷化に彼らが反対していたことは、現代のアフリカ系アメリカ人の英雄であるディック・グレゴリーとアリス・ウォーカーが話しています。

 けれども、抑圧されている何百万もの人々や搾取されている何十億もの動物を解放できるようになるには、私たちの精神を自由にし、新しい考え方をする必要があります。つまり、人や人以外の感覚を持つ他の生き物に対する虐待の輪を消極的に黙認し、さらにひどいとそこに積極的に参加することを受け入れる、相手を服従させ自分には権利があるとする考え方を意識的に排除することです。

 動物解放は女性や黒人、レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの解放と同じ倫理慣習です。それは、至上主義者の考え方や支配の力関係から起こる苦しみを終わらせることです。間違いなく21世紀は人間以外の動物を解放する時です。これまでに私たちが奴隷制や男性のみの参政権、反LGBT法の廃止を通じて人間を解放したように。

 動物解放は道徳的な義務です。他の動物種が私たちと違って見え、知性が劣るからといって、私たちが自己の欲求を満足させるために彼らを傷つけることを正当化することはできません。結局のところ、多くの脊椎動物は私たち人間と本当にさほど変わらないのです。彼らのDNAの多くは私たちと同じであり、思考や気持ち、感情、記憶、社交性、言語、利他主義、共感能力、そして特に重要なことですが喜びと痛みを共有しています。

 私たちは動物の本質とアイデンティティを認識し受け入れる必要があります。そうすれば、他の種をぞんざいに扱う言い訳や正当化はなくなり、今こそ人間と他の動物の両者を解放する時であると気づくでしょう。

ピーター・タッチェルは長年にわたる権利問題の活動家です。


Human Rights Are Animal Rights • Peter Tatchell

Speciesism is analogous to racism, homophobia and misogyny

303: July/Aug 2017

リサージェンス & エコロジスト 日本版

リサージェンス誌は、スモール・イズ・ビューティフルを提唱したE.F.シューマッハらが始めた社会変革雑誌で、サティシュ・クマールさんが主幹。英国で創刊50年、世界20カ国に読者4万人。環境運動の第一線で活躍するリーダーたちの、よりよい未来への提言で、考える糧を読者にお届け。また、詩や絵などのアートに溢れているのも特徴。

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