思いやりのこころから外れずに

マインドフルネスだけでは充分ではない。私たちは利他主義の能力を養わなくてはならない、と仏教学者は語る。クリスティン・トーメイがインタビュー。

翻訳:齋藤 未由来

 トゥプテン・ジンパ (Thupten Jinpa) が幼少期を振り返った時に思い出すのは、北インドから離れた難民集落の煙ったテントの中で目を覚ました時の、朝食用のチベット式バター・ティーを掻き混ぜる母親の姿と、緩やかな抑揚のある祈りの声だ。それは1960年初頭、中国の軍隊による祖国侵略、そしてダライ・ラマの亡命に続くチベットからの亡命後のことで、両親は国境地域での道路建設に参加させられていた。

 母親が木製の茶筒を回すと、その度心地良い音色が繰り返し生まれ、祈りの声にリズムのように続いた。母がよく口にしていた祈りの中でも覚えているものの一つに、チベット仏教の「慈悲喜捨(四無量心:four immeasurables) 」というものがある。この二小節目の核として「すべてのものが苦しみとその原因から解き放たれんことを」とあり、これは慈悲の心における仏教の原則だ。

 そのような幼少期から五十年余りが過ぎ、ジンパは「恐れないこころ:なぜ思いやりがより良き健やかさの鍵となるのか(A Fearless Heart: Why Compassion is the Key to Greater Wellbeing)」という感動的な本を書いている。同書では、ジンパがその設立にも尽力した、スタンフォード大学の思いやりと利他主義の研究教育センター(略称:CCARE/ Compassion and Altruism Research and Education)で長年研究を重ねてきた指標的な構想の概要が述べられている。

 この構想によると「思いやりのこころを育てる」ため、規格化された8週間の長期トレーニング(略称:CCT/ Compassion Cultivation Training)を受講し、私たちの誰もが本来産まれながらに持ち合わせている「慈悲の筋肉」を鍛えるとしている。近年、マインドフルネスは多くのグローバルメディアに取り上げられているが、ジンパはこのトレーニングこそ「マインドフルネスの次のステップ」であると言う。

人は「意義を求める生き物」であり、健やかであるという感覚と自尊心は他者とどのように繋がるかに委ねられていると彼は言う。

 ジンパは、仏教の伝統的マインドフルネス・トレーニングをわずか11歳の時、僧となり習得した。また、優秀な学者でもあった彼は、ダライ・ラマの第一英語翻訳者となり、1999年ニューヨーク・タイムズのベストセラーにもなった「幸福論」【Ethics for the New Millennium。日本語版は2000年、角川春樹事務所刊】を初めとし以降30年以上もの間、書籍の翻訳、編集に携わっている。

 更にそのアカデミックな才能はケンブリッジ大学での博士号取得、スタンフォード大学の教職、また1980年代の還俗後から妻と二人の娘と共に暮らす、モントリオールにあるマギル大学での兼任教授の職へと繋がる。加えて、現在では仏教的伝統と西洋科学の架け橋を構築すべく活動をし、名高い評判を得るマインド・アンド・ライフ協会 (Mind and Life Institute) の長も務める。ジンパは、この修道的伝統と俗世間での両方の経験をすることにより、今日私たちが直面する挑戦への地に足のついた視点を得た。

 今年初めに「恐れないこころ」がイギリスで出版されて程なく、ロンドン南部ランベスにあるジャミヤン仏教センター (Jamyang Buddhist Centre) の広々とした部屋でジンパと向かい合い、思いやりのこころを育てるトレーニングにより、いかにしてマインドフルネスから次のレベルへと到達し得るか、という話を聞くことが出来た。「マインドフルネスだけでは充分ではありません」とジンパは率直に述べ、その実践は個人的なものであり時に孤独なものになる、と加えた。「これにより更に大きな気づきと理解への扉が開かれます。しかし、このトレーニングの趣旨は世界に思いやりを生み出すことにあり、すべては私たちが他者とどのように関わるか、ということにあるのです。」

 科学的研究に裏打ちされ、人の行動の主な動機は私利によるものである、という長年の説にジンパは異議を唱える。人は「意義を求める生き物」であり、健やかであるという感覚と自尊心は他者とどのように繋がるかに委ねられていると言う。「ダーウィンですら、進化論が成立するか否かは、利他主義の現象をいかにして説明しうるかによると述べています」

 このジンパの説は、増加傾向にある、思いやりと利他主義の重要性に焦点を当てた調査や構想と一致している。(枠内ご参照。)19世紀以降しばらくは、適者生存と利己的遺伝子説が科学的思考を支配していたが、近年では生物の生存をかけた利己的行動に比べ、生物学的な利他主義の役割と寛容さの重要性へ注目が集まっている。

 ピューリッツァー賞をダブル受賞した自然主義者のエドワード・オズボーン・ウィルソンは、利他主義は「遺伝子的な強欲で正当化されるものではない」と結論づけている。ウィルソンの研究によれば、グループ内で私利主義が利他主義に勝つことが出来たとしても、広い範囲で言えば「利他主義グループは、私利に走る個々人を打ち負かすことが出来る」と言う。

 「科学界においても思いやりが人を突き動かし、行動のモチベーションとなる説に対し、反対する声というのは現在では大変少なくなっています。」と、ジンパも同意する。

 科学が精神病理学と神経学の分野で長足の進歩を果たした一方で、人の心のポジティブな面に対して行われた研究は非常に少ない。そうした経緯により、スタンフォード大学のCCAREではこのような研究に焦点を当ててきた。

 ジンパは「恐れないこころ」の中で「思いやりのこころを持つことは、逆説的に、私たち自身がその最大の恩恵を受ける、当事者のひとりとなる」と、述べている。科学が立証したように、心理的な幸福感に加えて狭量な個人的利益の追求からの転換は、医療の分野においてもその恩恵がもたらされる。一例として、思いやりのこころを持つことで生まれる、あたたかな感情によるオキシトシン・ホルモンの分泌は、循環器系の炎症の症状軽減に関連があるとされており、つまりはストレスと心臓病を抑制すると言える。

 過去20年以上の月日を経て、人類の脳検査のための道具は更に洗練され、神経画像によって、科学者は神経可塑性の現象と体験がどのように脳内で形作られるかを理解しうるようになった。

 このような研究結果は、今日世界規模でのマインドフルネス現象を引き起こした、ジョン・カバット・ジンによるマインドフルネスストレス低減コース(略称:MBSR/ Mindfulness-Based Stress Reduction)の構造をモデルとした、スタンフォードでの8週間の「思いやりのこころを育てる」CCTプログラムの支えとなる。

 MBSRプログラムにもあるように、CCTにおいても、参加者は1週間の内2時間のクラスで瞑想の実施を指導され、思考、感情、行動のプロセスにおいて更なる気づきと理解を得るよう、トレーニングが行われる。

 加えて、日常生活で実施する様々な「課題」も与えられ、受身な姿勢ではなく、他者の苦しみを解放することに対し意欲的、また積極的に関わる活動的な立ち位置で、他者に対する思いやりのこころを実践するための自然な心を育てる。

 ジョン・カバット・ジンのMBSRプログラムでは、慢性的な痛みから救われる方法を提供することで参加者に勢いをつけるが、スタンフォードのCCTもこのような慢性的な痛みからの解放を手助けするとして、米国でのパイオニアとなっている。

 更に、この方法は、心的外傷後ストレス障害に苦しむ退役軍人に対しても使用され、サンディエゴの大規模な私設ヘルスケアグループ、グーグルのエンジニア、スタンフォードのビジネススクールの学生の間でも採用されている。研究者は、教育機関でもどのように本コースを採用できるか、調査を開始した。

 ジンパは「恐れないこころ」の中で、フランスの詩人で小説家のビクター・ヒューゴを引用している。「時を得た理念に勝るものはなし (Nothing is more powerful than an idea whose time has come) 」思いやりのこころにとっては、今がその時である。


その他の「思いやり」を実践する機関

思いやりの憲章 (The Charter for Compassion):神学者で文筆家のカレン・アームストロングが2009年に設立し、思想家および指導者による宗教的に多様な国際的会議により牽引される。本団体は「善意の国際総力を、信仰心と道徳と政治生活による思いやりを持った思考と行動の創造を」と掲げる。活動の中でも「思いやりのコミュニティ・キャンペーン (Compassionate Communities campaign) 」は、世界各国80を超えるコミュニティが参加しており、各コミュニティは思いやりの行動の推進のための、詳細な10年計画を提出することが義務付けられている。2015年10月にはチャールズ・ダーウィンの出生地として知られる、シュルーズベリーでの2日間に亘る「思いやりの実行者会議」が開催され、思いやりの分野における各国の第一人者である専門家や思想家、またダーウィンの玄孫にあたる、詩人で文筆家のルース・パデルらが招かれた。

思いやりを育むためのダライ・ラマセンター (The Dalai Lama Centre for Compassion):2015年初めにオックスフォードに設立され、非宗教的な「人類の思いやりとそれに関連する価値における理解の進歩の他分野にまたがる道徳原理の研究所」。

オックスフォード大学マインドフルネスセンター (The Oxford Mindfulness Centre, University of Oxford):今年に入って思いやりのマスタークラスが追加され、「思いやりのより深い理解とマインドフルネスによる認知療法におけるその位置付け」を育てる。

マインドフル・ネイションUK (Mindful Nation UK):1月、マインドフルネス議員連盟(略称:MAPPG / Mindfulness All-Party Parliamentary Group)マインドフル・ネイションUK中間報告を発表し、公共政策がいかにして英国を穏やかでエシカルかつ思いやり溢れた、よりマインドフルな国家と変えうるかを述べている。


クリスティン・トーメイ (Christine Toomey)はジャーナリストで著書に「The Saffron Road: A Journey with Buddha’s Daughters」(57ページに書評)がある。「恐れないこころ:なぜ思いやりがより良き健やかさの鍵となるのか(A Fearless Heart: Why Compassion is the Key to Greater Wellbeing)」トゥプテン・ジンパ (Thupten Jinpa) 著、Piatkus刊。


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On Course for Compassion • Christine Tooney

We must go beyond personal wellbeing

293: Nov/Dec 2015


リサージェンス & エコロジスト 日本版

リサージェンス誌は、スモール・イズ・ビューティフルを提唱したE.F.シューマッハらが始めた社会変革雑誌で、サティシュ・クマールさんが主幹。英国で創刊50年、世界20カ国に読者4万人。環境運動の第一線で活躍するリーダーたちの、よりよい未来への提言で、考える糧を読者にお届け。また、詩や絵などのアートに溢れているのも特徴。

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