単なる子供の遊びを超えて

アヤ・フスニ・ベイは日々の関わりと治療ツールを語る

翻訳:フリッツ郁美

ドイツの哲学者カール・グル-ス(Karl Groos)と議論する人はまずいないでしょう。彼は、自身の著作「The Play of Animals」の中で、私たちは年をとっていくから遊ぶことを止めないようにと提案し、むしろ遊びを止めるので年を取ることを提言しています。 ところが極めて少数の大人しか自分のやることリストに「遊ぶ時間」を書き入れていません。 遊びは、現代的で、物質的で、テンポの速いライフスタイルと調和しません。遊びにお金をかけない。 こうして、私たちの遊び心は衰え、歳を重ねるのに応じて萎んでいきます。

 私が初めて、遊びをカウンセリングのツールだと直感したのは1999年で、レバノンで児童慈善団体のために働いた時でした。 ある男の子は、大人を思わせる粗暴な言葉を使って私に叫び、その態度は暴力を暗示していました。 私はさてどうしたものかと考えて、ただ立っていました。 それから私は歩いて机に行き彼にボールペンと紙を渡しました。 彼の自由意志で、螺旋を何度も何度も、力一杯、紙に描きつけました。 数分後に彼が止めると、それをきっかけにして、私は、部屋から友人のところ連れ出しました。

 それにもかかわらず、彼の意思疎通は、似たような大人たちのコミュニケーションに等しいものがありました。

その見識を私が持ったのは、ルドルフ幼児教師として、子供中心の教育の訓練を受けていたからです。私は後に遊戯療法専門家として、そしてより大人向けのホリスティックカウンセラーとして訓練を受けました。現在、私はトランスパーソナル芸術のカウンセラーとして訓練を実施しています。

 私の仕事経験を通じて、大人にとっての遊びの力に深い信念を育ててきました。 これはあまり感動的でない気づきに由来していて、私がクライアント、友人、同僚(落ち込み、憤慨している若い男、深い悲しみの女性、不安なビジネスマン、自信自信が持てず苦労している若いアーティスト、 真のリーダーシップを目指している中年のマネージャー)について熟考していたときのことでした。私が衝撃を受けたのは、悲しみを持ち、長期間心配している人は決して遊んでないということでした。それはとてもシンプルです。 これとは対照的に、希望ある見通しをもって暮らしている人々は、常に自分たちの生活の中で遊びの要素を持っていました。悲しい人々をしなやかで強い人々に変える力が遊びの中にあるのは当然だと思いませんか?

 もちろん、はるか昔からセラピストやカウンセラーたちはクライアントが遊んで暮らしを楽しむようにおだててきたわけですが、セッション中にクライアントにカウンセリングルーム内に遊びを持ち込むのはどうでしょうか? 私はそうすることにしていて、一度も後悔したことがありません。

 私のクライアントである米国のメディア番組の司会者エリカ・・デ・ラ・クルス(Erika de la Cruz)(この記事内で彼女の名前を使用する許可はとっています)は次のように述べています。「遊びを使って内面の真実、潜在意識、洞察を発見した経験は、 私にとって伝統的な[カウンセリングの]対話よりも脚色のない現実です。 私が経験してきたことについて話すのではなく、実際に表現しなければなりません。 実際の物やおもちゃで遊ぶことで、子ども時代に戻ってとても元気になっていきました。」

 私は、名残、温かさ、日常を超えた生きる喜びを人々が得ていることが分かっています。日常生活には、私たちを引きずり落とす終わりなき恐れがあるという懸念が必然的に内包されています。 遊びによって補われた人生はより管理しやすくなります。私はよく仕事帰りのクライアントに緊張するような神経症の気質、活気がなく時には気力を衰えさせるような存在感があることを感じてきました。その一方で遊び心のある日を過ごした人々は、多くの肉体的エネルギーを消費したとしても、活気のある姿を見せます。

 私はいつも創造的に遊んできました。寄宿学校時代を通して夕方の芸術教室の常連で、その後は何年も、ダンスグループで、操り人形師としてパフォーマンスをして、また即興演劇で遊んできました。当初、私はカウンセリングの状況で遊びを真剣に捉えてくれるか定かではありませんでしたが、クライアントのニーズを満たす遊びに可能性を見出すことができました。

 私はとにかく試してみました。ロマンチックに言えば、私が発見したのは、詩人キーツ風の深い遊びの美で、真実を明らかにするものです。そして、時には、従来のカウンセリング通じて辿り着くには、丸一ヶ月分の日曜日を費やすこともあるという真実を明らかにします。これは、最も暗くて最も難解な問題で、理解も見通しもなく何時間も話した後に、クライアントが困り果てた時に起こり得ます。

 ここで私たちが没頭できる遊びを扱っていることを明確にしましょう。子供のようにハマる遊びです(単に幼稚な遊びではなく)。 私たちは、よく働く体をソファにどさっと投げ出し、スクリーンを見つめ、おそらく一杯のワインを手にして、毎日時間をつぶすような受動的な娯楽について語っているわけではありません。 適切に言えば、遊びには少しの身体的、精神的、努力が必要です。 これは、クライアントの人生のロールプレイで再現する通常の治療を果たすものでもありません。これは、生活と明らかな関係のない役割を選ぶような遊びでありながら、それ自体が愉快で興味深いと思わせるものです。そう、遊び心たっぷりに。

 演技の自発性が鍵です。 解きほぐされ、私たちの心はもはや意識的に次に起きることをコントロールしなくなります。 この瞬間に何かが起こる可能性があります。 カール・ユングの観察と一致し、「無意識を意識するまで、無意識があなたの人生を導きそして、それを運命と呼ぶのです。」

 私は、関係のなさそうな話や劇的な演技で抑圧された気持ちを演じるだけで、クライアントに、彼ら自身と彼らの雇用者、クライアント、子供、パートナーとの間で働いている人間関係を突然理解させることができたのです。

 絵を描いている間(また、自由意志で)、無意識がきままにクライアントの人生全般をあちこち歩き回ります。したがって、クライアントはキャンバスに描き終わったものを見てよく驚き、記号のような言葉をはっきりさせようとします。 それは例えば、背中合わせの人物間の痛ましい悲しみの絵で、関係が終わったこと、あるいは恐らく傷ついたことが以前認識したよりも深いことを明らかにしている場合もあります。

 遊びの中に何を経験したか、後の反省で、新たな全体像が得られ、より良い情報に基づいた意思決定を行う機会へとクライアントの心を開くことができます。 例え、それが単に人生の謎を確信しただけであっても、絵は強い気持ちと自信を呼び起こすかもしれません。遊ぶことで特に何も学ばなかったとしても、常に自分自身をリフレッシュすることができます。

 物語を話すことも役立ち、 物語の紆余曲折や同情できるキャラクターで自分自身が驚くことを話すこともあります。箱庭療法の砂箱でフィギュアを使って演劇を演じることは、社会との関係性に関して非常に暗い疑問からくる認識を手放すことができます。 フィギュアの配置は概観を示し、私たちが空間と視点を得られる場所からの観察を可能にします。

 グループ内で遊ぶと、関係性の変化が起こります。一人が話して他の人が聞いたり、ぼんやりと自分の番を待ったりするのではなく、誰もが一緒に何かをするのです。 多面的な交流は、グループで遊ぶと安定します。 人々は絶えず他人に刺激されているので、人々は活気づけられます。

 これらは私が遊びについて気づいた大まかなパターンですが、それらはすべて、超意識からくる気晴らしと精神の解放を示しています。幼少時から遊びを忘れてしまった人たち(悲しいことに、私たちの大部分)であっても、観察して理解するのは簡単なプロセスです。

 遊びの中で、無意識は、遊ぶ任務というプロセスに埋没している意識の非常に厳しい状況下ではなく、自由に、あちこち歩き回りながら探検していきます。 これは、クリエイティブな遊びのあらゆる形態へと拡張することができます。例えば、仮面を作ることは、多くの考えを捨てることができます。単純に積み木で遊ぶだけでも、創造と破壊の気持ちが私たちの本質を駆け巡るので、関係性やトラブル、良い時や悪い時というものの一時的で一様な性質を思い出すことができます。

 チャーリー・チャップリン、哀愁の達人は、含蓄ある言葉で遊びを捉えました。「心から笑うためには、 苦しみを受け入れ、遊べるようになれ!」私がこの言葉に出会ったのは、結局のところ完璧に気づいてる大人にとっては遊戯療法の価値などまったく大したことではないと分かった時でした。

 実際、米国では、臨床精神医学研究の第一人者であるスチュアート・ブラウン(Stuart Brown)が設立した国立遊具研究所(National Institute for Play)が高く評価されています。 彼の魅力的な本「Play: How It Shapes the Brain」、「Opens the Imagination」、「Invigorates the Soul」で、人気のある作家です。 カウンセリングの観点から見ると、同研究所のウェブサイトのランディングページ[ユーザーが最初に訪問するWebページ] にある言葉は完璧に魅力をまとめています。「誰かと1時間遊べば、1年間の会話より多くのことを発見できます。」

 しかし、あたかもいつでも遊べるかのように(その通りなのですが)、私たちは知ったかぶりで遊びについて話すことは殆どありません。 私たちはたくさん遊びませんし、遊ぶ時は、通常、注意深く取り決めをして、決まった時間枠で、小さく圧縮したものにまとめられています。大人の文脈では、「遊び」という言葉は、スポーツ施設で予約された正式な競争的スポーツの激しさを最も意味します。 楽しいですが、それは子どもの遊びのように創造的でもなく、終わりのない遊びではありません。

 私が自分のことを雇われの遊び仲間と呼ぶとしたら、私に顧客がつかないでしょう。それでは専門家に聞こえないでしょうから。本心は、多くの顧客にとってまさにそう「良き遊び仲間」であることを望んでいるのです。私にはこの悲劇的に無視された役割を全員が望むべきではと思われるのです。

アヤ・フスニ・ベイ (Aya Husni Bey) は、現在、ラオスのルアンパバーンのラオ・フレンズ小児病院で勤務しています。 

It's More Than Simply Child's Play • Aya Husni Bey

We should unleash the spirit of play in our lives

308: May/Jun 2018

リサージェンス & エコロジスト 日本版

リサージェンス誌は、スモール・イズ・ビューティフルを提唱したE.F.シューマッハらが始めた社会変革雑誌で、サティシュ・クマールさんが主幹。英国で創刊50年、世界20カ国に読者4万人。環境運動の第一線で活躍するリーダーたちの、よりよい未来への提言で、考える糧を読者にお届け。また、詩や絵などのアートに溢れているのも特徴。

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