手の中の大地
インディア・ウィンザー=クライブが、日本で素材という自然にインスパイアされた2人の陶芸家と出会います。
翻訳:浅野 綾子
ガラスショーケースの中で、台座の上に静かに佇む小さな茶碗。光が粗い表面をかすめ、縁から垂れる釉薬を照らします。控えめな美しさを醸し出し、茶碗に漲る感情が滲み出ます。茶碗自身が持つ感情。茶碗そのものが持つ感情です。
6代楽左入 (1685–1739)の手によるこの特別な黒い茶碗は、雲煙過眼と名付けられています。「目の前を行き過ぎる雲と靄」という意味です。京都の公益財団法人樂美術館でガラスケースに目を凝らせば、器の底に立てられた茶をすする時、黒曜石の釉薬を背に目の前を流れていく靄を心に描くことができるでしょう。
陶磁器類は、日本で尊ばれる伝統工芸の中でも実に多種多様な分野ですが、三輪和彦と三原研という優れた日本の陶芸家と最近出会い、あのように有無を言わせぬ現代的な作品を生み出すよう2人を突き動かす、歴史に受け継がれるはっきりとした魂の衝動があるとわかりました。三輪氏と三原氏両方とも、作品を素朴で力強い土と火の融合に形作る素材と自然の力に、生まれもってのつながりがあることを証明しています。
京都から8時間のドライブで萩に到着。本州の西の端にある山口県に位置するこの町に、三輪和彦氏の住居と彼の先祖伝来の遺産があります。和彦氏は、11代三輪休雪の子息。11代三輪休雪は、人間国宝であり、日本全国で楽に次ぎ第2番目に重要な作陶名家の11代目です。一族の優れた茶器は、濁りのある濃い白い釉薬がかけられた高火度ストーンウェア '[陶器と磁器の中間の性質を持つもの]。このストーンウェアは、三輪家の窯が造成された1663年から焼かれています。窯は現在でも使用されているものです。
萩にある浦上記念館を訪れました。和彦氏の兄や父、曽祖父の作品展示と並行して、和彦氏の素晴らしいインスタレーションの展示があります [浦上記念館に問い合わせたところ、曽祖父・雪山の収蔵はあるものの展示はしていないとのこと]。金、黒、白や灰色の釉薬がかけられた神秘的で大きなセラミックの厚い板が、ギャラリー中に散りばめられています。不揃いで角ばっており、壊れた片が元通りに接がれたものもあれば、壊れたままのものもあります。間をおかずに和彦氏が出迎えてくれ、一族の伝統が、彼のくっきりとした彫刻のような作品に、どのように影響を与えたのかを説明し始めました。人生における多くの事柄と同様、各々の作品が大地にしっかりと根づかされ、無限の空間もしくは未来を目指して、空に向かって伸びていく様子を語る和彦氏。インスピレーションのほとんどは、グランドキャニオンやヨセミテのような自然の描く大柄な模様から得ているのだと言います。大地に触発され、大地によって作られているのです。
和彦氏は、萩の郊外にある木造家屋の自宅と拡張されたスタジオの複合施設を案内してくれました。斜面に手作りされた、5室からなる薪火の登り窯がありました。韓国から伝えられた手法です。登り窯に火を入れる前、初めに塩で清めること、1回の焼きに30時間以上もかかることがあることの説明がありました。和彦氏は、粗い砂と異なる種類の粘土を混ぜ合わせます。これは伸びがよくないため、陶器は欠けたり、完全に崩れてしまうことがよくあります。「繊細な仕事なんです」と和彦氏。「何十か作って1つできる具合です」。
異なった素材、そこに含まれる鉄や鉱物の温度変化は様々です。ですから、陶芸家は作品がどのように仕上がるか完全にコントロールすることはできません。始めは比較的滑らかな状態であっても、窯の中で魔法にかけられるのです。相乗効果で、艶やかな白い釉薬が玉になって浮き上がり、独特な手触りのある下地の赤黒い粘土をむき出しにします。それぞれの作業は、陶芸家のビジョンと使用される素材という自然との対話になるのです。各々の代は、トレードマークである独創的な炎を生み出すために、古くから伝わる技術に趣向を凝らしています。近隣の田んぼで育てられた稲わらの灰が原料の非伝導性の釉薬調合もその1つです。
和彦氏のプライベートギャラリーには、表面にざらつきのある秘蔵の鬼萩茶碗が、壺に入れられた白い釉薬と共に、スポットライトに照らされた棚の上に置かれています。この作品はどのようにして上手く作ることができたのですか? 全ては感覚だと言う和彦氏。まさにこれはこう出る、という感覚だと言うのです。融合して完璧な心地よさを生み出す、自然と不完全さの絶対的なバランス。このバランスを露わにする作業は、美的配列の発想を越えると言います。
生命を体現した陶器(人と自然の不完全さと完全さの共存)は、はかなさと不完全さを受け入れることを基礎としたわびさびという日本の美学的概念の典型例です。仏教の三相 (無常、苦、無我)[英語原文では上座部仏教の三相を説明していますが、日本で主流の大乗仏教の三法印は、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の3つです。] に由来し、不完全、有限、未完成の美に忠実です。名人千利休による解釈とされる茶道の要となる側面、飾り気のない素朴さ、気取らない素直な手法、そして自己に対する正直さと同じです。不完全という美学に忠実であると同様、わびさびは、自然界の物とその移り変わりの切り離せない関係と、その天衣無縫な完全無欠さを感じ取ることに心を留めるのです。
次の日、日本最古の神社があり、6世紀に遡る古墳がある考古学上の史跡である出雲へと、海岸沿いをドライブしました。三原研氏の自宅と工房は、霞たなびく山々に囲まれた場所にあります。三原氏の原始的で魔力を感じさせる作品は、出雲の環境に同調し、古代青銅器の儀式的な雰囲気を魔法のように作り出します。
三原氏の工房の中で、作品は、ろくろの上盤から上へと螺旋を描き、丸いひだが宙へと重ねられていきます。三原氏は、どのようにして機能的な容器らしい形をやめて、純粋な自己表現、すなわち、作品がひとりでに物体になるという表現へと向かったのかを語ります。「私の心は開放されています」と記す三原氏。「身体に染み込ませたこと、意識的な多くの決まりごとは、もはや必要ないのです。私の表現は、私の内側で生まれるものを包み込み、それを偽らないものです」。
三原氏の作品は、手の込んだ熟練のひも作りの技を通して初めて姿を現します。この技は、陶芸家を作品の中に注ぎ込ませ、作品を陶芸家自身へと置き換えさせることを可能にします。三原氏は、スケッチを描いたり、頭の中に形を描くことをしません。むしろ手に「粘土と会話を始め」させます。澄みきった、禅を思わせる簡素な雰囲気を漂わせ、三原氏の作品では陶芸家の存在を触れて感じることができます。三原氏の言葉を借りるなら、彼の作品は、「思いがけない美しさへの尽きることのない探求を体現している」のです。
鉄分豊富な地元産のこの粘土の表面に無数の色が現れてくる間、それぞれの作品が頻回に焼き入れされる様子を、三原氏は詳しく語ります。釉薬を一切使わず、細かな装飾や仕上げも一切行わない。粘土の持つ固有の鉱物が火・酸素と反応し、鮮やかな紫、紺、オレンジや黄色の風景が、独特の手触りの粘土の表面一帯に現れます。三原氏は、私たちの足元で掘り起こされる粘土には、内に閉じ込められた色の確固とした記憶があること、焼き入れの仕方によって「粘土の中の記憶を呼び起こす」ことができるのだと言います。三原氏はどのような色が浮かび上がるのか予想することはできませんが、幅広い色彩を浮かび上がらせる酸素と温度の度合いを直感的に調整することができるのです。
こうした陶芸家たちの手仕事に見られる人間の創造への衝動と自然の力の共存の中には、自然界に元来備わる疑いようのない共振現象が存在しています。全て自然界の物は、例え生命のないものであっても、神として敬われるのだという日本の神道の伝統を思い出させます。人間の精神が存在の中心であるという考え方を拒否する、この自然を敬うという行為は、全ての物と物を成す素材の力を認めることだと理解できます。物や素材が自然であるのと同じように、その物の作り手も自然なのです。
インディア・ウィンザー=クライブはフリーランスライター。
The Earth in their Hands • India Windsor-Clive
Exploring the work of two ceramicists from Japan inspired by the nature of their materials
305: Nov/Dec 2017
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