きずなと一体感
サティッシュ・クマールが愛の風景を探る。
翻訳:舘林 愛
愛とは疑いをやめることです。愛するためには、自分自身を信じ、そして心から愛する人を信じることが必要です。
愛することは、愛する人を批判したり、文句を言ったり、コントロールしたり、比較したりする習慣を止めることです。ここで致命的で愛に反する 4 つの C を説明します。
批判(criticism)の C
私たちが愛する人を批判する時、私たちは裁く立場に身を置いています。私たちは、事実上「私は正しくて、あなたはまちがっている」と言っています。「正しい方法はひとつしかなくて、それは私の方法。だから私のやり方でやって」。これは横柄です。愛と傲慢はまるでチョークとチーズ[月とスッポン]ほど違います。これらは相入れません。愛は謙虚さの実りなのです。
愛は束縛ではありません。愛は絆であり、一体感なのです。愛は 2 つの魂の結合ではありません。誰かを愛している時、1 + 1 = 11 となり、 1 + 1 = 2 ではないのです。
愛とは、困難で予測できない、かつ素晴らしい人生の旅を共にする約束なのです。
私たちはあらゆる状況において批判的な思考を養うように教育されてきました。疑って見ることは、常に良しという考え方に指導されてきました。デカルトの方法的懐疑は高座におかれ、ほとんどの教育システムの基本とされてきました。
批判的思考と方法的懐疑は哲学の分野や、その他の知的探求において有効です。批判したり疑ったりするのは脳の働きのために適当なメンタルアクティビティです。しかし愛、友情、人間関係においては、批判は感謝に置き換えられる必要があります。信頼は、疑いに代わって、私たちの心の中の神聖な場所に祀られるべきなのです。人間関係と愛は心の土壌に育ちます。そして心は、信頼という甘い蜜によって養われるのです。
不平(complaining)の C
私たちが文句を言う時、やはり私たちは誰かを裁いています。愛する人たちに向かって、不注意だと言ったりします。つまり、一般に特定の行動基準があって、彼らの行動がその基準に劣る時や、彼らの行為が無責任だったり、好ましくなかったりした時などです。不平を言うのは攻撃的で、それはハサミのようなものです。私たちの心を切り刻みます。愛と攻撃は共存しません。
愛は期待するものではありません。愛は相手をあるがままに、無条件に受け入れることなのです。私たちは皆、異なっていて、多様なのです。それはなんと美しく素晴らしいことでしょうか。愛という太陽は多様性の夜明けから昇り、何千種類もの花を咲かせます。愛は「多様性を生きなさい!」と宣言しているのです。
文句とは受容の欠如や、信用のなさから出てくるのです。不平と疑いは同じ穴のムジナです。
私の提言は絶対的なものではありません。社会正義に対してや、環境劣化、人種差別、軍拡競争、その他、廃棄物、汚染や暴力など類似するシステムに対して、文句を言う余地はあります。これらの状況においては、私たちは文句を言い、反対し、抗議する権利がありますが、不当な秩序の支持者たちを憎んだり虐待したりしてはなりません。私たちは真実、誠実、美のために立ち上がることが出来ますし、そうしなければなりません。でも、無知なために、不当な社会システムを永続させようとする人々に対しては、愛と同情を心の中に持って、それを行わなければなりません。
私たちは誰しも間違いを犯します。ただ、違う種類の間違いを起こすというだけなのです。間違うことは、至極当然で自然なことです。成長する唯一の方法は間違いから学ぶということです。何かを学ぶということは決して終わりません。
コントロール(controlling)の C
他人をコントロールしようと望むのは愛に反します。他人を制御しようとすることで、自分自身を優勢的な位置、エゴの場所に置くことになります。エゴは愛の敵です。
愛のある家庭では、真の親密さと互恵関係があります。誰も優勢でも劣勢でもありません。皆がお互いに気づかいをします。愛に溢れた家では、母の愛、父の愛、兄弟姉妹の愛、ロマンチックな愛、性的な愛、そして食べ物への愛、料理や掃除をすることへの愛、お菓子やパンを焼いたり、ものを作ったりする愛、世話をしたり分け合ったりする愛を経験します。理想の家は、コントロールフリーゾーンだと思います!
愛は所有ではなく、開放なのです。
愛に在る時、私たちは他人の生活を世話しようとするのではなく、生活のプロセスに参加します。
人をコントロールしようと望むのはその人の自己管理の能力を疑うことです。他人を支配したいという衝動にかられるのは、誰もが生まれながらに完全さと想像力を与えられているという真実を疑うことです。
でもあなたは、「コントロールしたい欲求を建設的に使う方法はないのか?」と尋ねるかも知れません。
答えはイエスです。私たちは、怒りや欲望やエゴをコントロールすることが出来ます。そのようなセルフコントロールは私たちを紛争や対立、戦争から開放します。支配から和解へシフトすれば、共同体意識を持って他の人々と生活することが可能です。私たちは寛大さの園で育つことが出来ます。深い喜びと思いやりの気持ちを経験することができ、私たちは愛の海を泳いで行くことが可能なのです。
比較(comparing)の C
誰かを他の人と比べる時、私たちは二元論の穴の中に封じ込められています。善い、悪い、あるいは正しい、間違いという概念に囚われるのです。イスラーム神秘主義者スーフィーの詩人、ルミ(Rumi)はこう書いています。「善行悪行の考え方から抜け出した時、その領域は存在します。私はそこであなたにお会いしましょう」。その領域こそ、友情や無条件の愛の世界で、私たちは比較の制圧する世界を超えて叡智の羽ではばたくのです。全てのものには場所があり、その場所で良いのです。自然の中では、蛇と白鳥、薔薇とトゲは幸福に共存しています。
無条件の愛によってのみ、私たちは怒り、恐れ、絶望の傷を癒すことが出来るのです。
木は聖人と罪人を差別しません。木は、その涼しい木陰と果実の香りを、全てのものや人に差し伸べます。富める者にも、貧しい者にも、賢者にも愚者にも、人間にも動物にも、そして鳥や虫といった誰に対してもです。木は誰でも愛しています。木から愛し方を学ぼうではありませんか。
善悪は在りません。ものは、ただそのように在るだけです。または、もし善し悪しが在るとすれば、それは全ての人間の心を通して在るのです。
それぞれ誰もが唯一であり、宇宙からの特別なギフトなのです。私たちが誰かを愛する時、その人を他人と比較することなく、その固有の尊厳を大切にし、祝福します。薔薇とシャクナゲ、マンゴーとメロン、あるいはアジア人とアフリカ人、タゴールとトルストイの間に比較はありません。各々の、全ての生命があるがままで正しく認められ、大切にされる価値があります。
恋人が欲しいと望む時、私たちはある人を別の人と比べがちです。でも恋人でありたいと望む時、私たちは比較の見地より高いところへ上るのです。
全てのキスにはその唯一の恍惚があります。ふたつのキスを比べることなど出来ません。
合理主義者たちは比較、対照します。恋人たちは受け入れ、喜びます。
ではここで毎朝のシンプルな瞑想を紹介します。〜 私は批判、抵抗、不平、コントロール、そして比較することを止められますように。代わりに同情、慰め、和解と対話を実践できますように。さらには、礼節と思いやりの心を培えますように。他者を正しく理解して賛美すること、私が毎日受け取る全ての命のギフトに感謝をささげることを学べますように!
サティシュは彼の著書『Pilgrimage for Peace: The Long Walk from India to Washington (Green Books, 2021)』について 4 月 21 日の午後 7 時からリサージェンスブッククラブにて話す予定です。www.resurgence.org/bookclub
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